ドームでのラストコンサートから一ヶ月が過ぎた。
 私、天海春香は同じ765プロに所属する如月千早ちゃんとユニットを組んで、再びアイドルとしての活動をスタートした。来月半ばのCDデビューに向けて、レッスン漬けの毎日だ。
 千早ちゃんは本当に歌が上手で、レッスン中なのを忘れて聞き惚れてしまうこともあるくらい。
 そんな千早ちゃんと一緒に歌ったり踊ったりするのはとても楽しい。忙しいけれど、充実した日々を過ごせていると思う。
 だけど、プロデューサーさんは隣にいない。
 私のプロデュースを終えて、今は事務所の後輩で新人アイドルの美希をデビューさせるための準備に追われている。
 765プロの仲間とお喋りしたり、レッスンすることは楽しい。
 けど、他の子――つまり、美希と親しくしているプロデューサーさんの姿を見るのは辛い。
 でも、本当に嫌なのは、そんな浅ましいことを思ってしまう自分自身だ。
 だから、プロデューサーさんに出会ったら、努めて明るく挨拶することに決めていた。
「おはようございます!」
 元気よく挨拶すると、プロデューサーさんは必ず優しく応えてくれる。
「あぁ。おはよう、春香」
 以前と変わらない穏やかな声を聞くたびに、心の奥がキュッとなる。そうと悟られないように、私はプロデューサーさんにとびきりの笑顔を返すんだ。

 ロッカールームでトレーニングウェアに着替えて、ダンススタジオへ向かう。
 千早ちゃんは先にスタジオ入りしていて、一人でストレッチをしていた。
「始めましょうか、春香」
 私に気付いて、千早ちゃんがそう声を掛けてくれる。
「うん」と、私は大きく頷き返す。
 レッスン開始だ。
 千早ちゃんと二人でデビュー曲の振り付けをおさらいする。
 もう各パートの振りは一通り覚えた。
 あとは練習を重ねて、ひとつひとつの動きを完璧なものにしてゆくだけ。
 来週にはPVを撮影することになっているから、それまでにきちんとしたものに仕上げておかなくちゃいけない。
 そんな気持ちが空回ってしまったんだろうか。
 あっ……と思ったときには、私は足を滑らせて転んでいた。
 不思議と痛みは感じなかった。
 寝転がって見上げる天井。煌々と光る照明。
 そんな光景に、私はふとプロデューサーさんのことを思い出していた。
 ダンスレッスンで私が転ぶと、プロデューサーさんはいつも「仕方ないな」って顔をしながら、手を差し伸べて起こしてくれたっけ。
「ドジだなぁ、春香は……」なんて言いながら。
 それで、私は――

「ほら、大丈夫?」
 不意に掛けられた声で、私は我に返った。
 声のする方を見ると、千早ちゃんが苦笑混じりに手を差し伸べてくれていた。
「怪我、してない?」
 ほんの数ヶ月前までプロデューサーさんがしてくれていたように、私を気遣ってくれる温かい声、優しい表情。
 もう限界だった。
 胸の奥にずっと押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出して、涙が止まらなくなった。
「は、春香……?」
 千早ちゃんの困惑する声が聞こえた。ような気がした。
「どうしたの、春香? 何があったの?」
「……私、プロデューサーさんのことが大好きだったのに。……プロデューサーさんと一緒にいたかったのに。……お別れなんて、したくなかったのに。……ずっと、ずっと、隣にいて欲しかったのに。……それなのに……プロデューサーさんの、背中を、見ていることしかできないなんてっ……」
 私は心の中にわだかまっていた思いを吐き出して、千早ちゃんに縋って泣いた。
 赤ん坊みたいに、大声で泣いた。
 そんなどうしようもない私の背中をさすりながら、千早ちゃんは歌を歌ってくれた。
 それは私もよく知っている歌だった。落ち込んだ友達を勇気づけ、励ます。そんな内容の歌詞が好きだった。
 千早ちゃんの澄んだ歌声に乗って届く、ちょっと気恥ずかしいくらい真っ直ぐな思い。それらのひとつひとつが、私の心に染みわたっていくような感じがした。
 気付けば、私も一緒になって歌っていた。
 歌うことで、こんがらがった気持ちがほぐれて、軽くなっていくようだった。
 あぁ、私は歌が好きなんだ。
 と、改めて確認することができて、それがまた嬉しかった。

 突然、千早ちゃんが歌うのを止めた。
「……どうしたの?」
 そう訊ねた私の腕を掴んで立ち上がると、千早ちゃんはスタジオのドアへ向かって大股で歩き出す。
 千早ちゃんに引き摺られるような格好の私の目の前でドアが開く。と、そこには驚いた表情のプロデューサーさんが立っていた。
 あんな告白をしてしまった後ではプロデューサーさんの顔を正視できるわけもなくて、私はただ俯くしかなかった。
 床に落とした視線の先で、プロデューサーさんの足が微かに動いた。
 その瞬間、千早ちゃんが信じられないくらい大きな声を張り上げた。
「逃げるのですか、プロデューサー!」
 千早ちゃんの声には明らかに怒りが滲んでいた。
 後退ろうとしていたプロデューサーさんは凍り付いたように立ち尽くして、私と千早ちゃんの間で視線を彷徨わせた。
「…………」
「プロデューサー。春香の思い、ちゃんと受け止めてあげてください」
 そう言って、千早ちゃんは私の背中をそっと押した。
「千早ちゃん……」
「一度や二度の失敗で挫けるなんて、春香らしくないわ。何度転んだって、必ず起き上がる。それが春香のいいところじゃない」
「え、でも……」
「デモもストもないわ。ほら、頑張って」
 私を無理矢理プロデューサーさんの正面に立たせると、千早ちゃんはスタジオへ戻っていってしまった。

 プロデューサーさんと二人きり。
 あれほど望んでいたシチュエーションの筈なのに、言葉が出てこなかった。
 伝えたいことが沢山あった筈なのに、どう表現していいのかわからなかった。
 何より恥ずかしくてプロデューサーさんの顔を見ることができなかった。
 立ったまま一歩も動けない私。

 どうして!
 どうして!!
 大好きなプロデューサーさんが目の前にいるのに!!!

 プロデューサーさんへの想いが胸の中でぐるぐる渦巻いているというのに、体はちっとも言うことを聞いてくれない。
 こんなことじゃ、またチャンスを逃しちゃうよぉ……。
 挫けそうになる私の左手に、プロデューサーさんの右手がそっと触れた。
「春香」
 名前を呼ばれたと思った次の瞬間、私はプロデューサーさんに抱きすくめられていた。
 懐かしい匂い。
 頬が紅潮するのが、自分でもわかる。
「春香、ゴメンな」
 プロデューサーさんの謝る声が耳のすぐそばで聞こえた。
「俺、春香のことが本当に大事だった。二人で力を合わせて頑張って、春香がトップアイドルになれたときは、心の底から嬉しかったよ。春香が俺のことを憎からず思ってくれているのも、薄々気付いてはいたんだ。けど、いつも知らないふりをして誤魔化してきたよな。実を言うと、俺自身が春香に惹かれていたんだ。でも、それは公私混同だ。俺はプロデューサーで、春香はアイドルだ。その役割を忘れちゃいけないと思った。つまらないスキャンダルで、せっかく築き上げた春香の地位を、アイドルとしてのイメージを汚したくなかった。だから、俺は春香の思いには気付かないふりをし続けて、プロデューサーとしての役目に徹しようと思ったんだ。それが春香のためなんだから、って自分に言い聞かせてさ」
「プロデューサーさん……」
「でも、そのことが春香を苦しめていたとも知らず……。結局、俺の独り善がりだったんだな」
 顔を上げると、プロデューサーさんは困ったような笑顔で私を見つめていた。
「こんな俺で、本当にいいのか?」
「言ったじゃないですか。プロデューサーさんは、私にとって生涯ただひとりの、代わりのきかない人なんですから!」
「そっか……。ありがとう、春香。これからもよろしく、な」
「はいっ。不束者ですが、よろしくお願いします、プロデューサーさんっ!」


--

元ネタ:


Z-u三乗

Personal Reality